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第十六話 「忘れもの」

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第十六話 「忘れもの」

第十六話 「忘れもの」

2026/08/03

 「ママ、行ってくるよ。」

と愛猫のハルキに言って、家を出て数歩、

(あっ、また、忘れた!)

と、慌てて戻った。

階段を駆け上がって二階へ行くと、ちょうど今起きた夫が、そんな妻の様子に

「そのうち落ちるよ」

と欠伸しながら、一階に降りて行った。

真知子は、自分の部屋に入ると、電子ピアノの前に座った・・・・・・。

ニ十分後には、もう駅に向かうバスに乗っていた。

(いつもよりも、少し遅いだけなのに、少し空いてる。この時間にしようかしら。)

いつもは会社に三十分前には着くバスに乗る。

(そろそろ、満員の通勤も卒業したいわ)

汗を拭きながら、思った。

 

 真知子の持ち場は第四工場、主に組み立ての仕事をしている。

今日の休み時間も、同年代の中野さんと昼食を共にしていた。

「そういえば、真知子さん、趣味のピアノどうなの?」

「すごく楽しい。やっぱり始めて良かったわ。」

「あなた、細かい作業が特別上手いから、合ってると思ったわ。」

「ありがとう。ホントは、若い頃ものすごく憧れた時があったんだけど、ちょうど主人と付き合い始めたころで・・・・・・。その後結婚、子育てでしょ。とっくに諦めてたんだけど、・・・・・・不思議ねぇ。」

「そうだったの?素敵ねー。何か始めたいって言い始めたの、去年の今ごろじゃない?子育て終わって、急に思い出したの?」

「そうねー。そうだったのかも。去年のいまごろ、ちょっと子育てロスみたいになってたわ。なんか、あの子がいなくなって、ホッとしたり、寂しかったりで・・・・・・、無我夢中だったからねー。子育ては、戦いね。」

「私は、まだ、その真っ最中。」

「そうね。なんか、ロスかなって、思ってた時は中野さんが羨ましくみえたり・・・・・・。変なものね。人間の気持ちって」

「今は?」

「もちろん、解放されて、やれやれ、よ。」

二人で、笑った。

「で、どうなの?ピアノ。上手くなった?」

「そうね。始めは、右と左の手が違う動きをするなんて、出来ない、って思ってたけど、少し動くようになった、って感じ。」

「じゃあ、まだまだ、これからね」

「ええ・・・・・・。でも、本当に楽しいって感じてる時間ね。練習が好きみたい。今は、夜と朝、必ずやるようにしてるの。」

「朝も?」

「そう、今日も練習忘れて、家出てから、また戻ってしてきたわ。」

「えー!相変わらず、頑張り屋ねー!仕事も趣味も、変わらないわね。そういうところ」

 

 夜、八時過ぎには、部屋に戻り、自分の時間が出来る。

(なかなか、上達しないのよねー。そんな簡単には上手くならないわ)

選んだ曲は、「太陽がいっぱい」、・・・・・・好きな映画だ。

(始めた頃と比べたら、良くなっていると思うけど・・・・・・まだまだ、ねー)

と思うと、一人で笑った。

何度も繰り返し練習する。

先週のレッスンで、先生が、

「真知子さん、何か目標があるのが、上達への近道です。この秋に行う発表会に参加しましょう。ものすごく、うまくなってます。練習頑張ってますね。」

と行ってくれた言葉が、真知子の頭の中を、いつもグルグル回っている。

(大丈夫、間に合う)

なんなら今でも、出られるんじゃないか、真知子は自分の努力に自信があった。

(あの人はぜんぜんこういうのに興味がないから、誰か好きな人に聞いてもらいたい)

芸術とは無関係の夫とは、趣味の話さえもしないので、そんな風に思う時があった・・・・・・。

 

 冬が差し迫ったある晩秋の暖かい日曜日、その発表会は行われた。

いざとなったら、緊張のあまり手が震えて全く練習の成果が出せず、太陽はまったく降り注がなかった・・・・・・。

「始めは皆、こんなものです」

と、真知子は先生に慰められた。

(・・・・・・あしたから、また、練習ね!)

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